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ごあいさつ 樹齢二百年のなんじゃもんじゃから名をもらい、岐阜県福岡町で一九九三年の旗揚げから二十年が経ちました。 三十数年前劇団うりんこ在団中に『ベッカンコおに』で鬼を演じました。ゆきが『肉親』の絆を断ち切って、自分の父親に向かってに「オニだ!オニだ!」と叫ぶその瞬間、『演ずる』ことは『生きる』ことだと気づかせてくれたかけがえのない芝居です。いつかはもう一度演じたいと思い続けて参りました。その夢が二十周年でようやく叶いました。 瞬三六四才、夏子五九才新たなスタートです。これからもよろしくお願いします。 |
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〈なんじゃもんじゃ〉の20年 ふじたあさや ついこの間作ったばかり――と思っていたら、もう20年にもなるのだ。 20年といえば、生まれたての赤ん坊が、おとなになるまでの時間だ。 では〈なんじゃもんじゃ〉は、おとなになったか? なった――と、ぼくは思う。よく劇団の成長を、劇団員の数や、演目の数や、公演回数ではかるが、〈なんじゃもんじゃ〉の場合は、それも勿論ないわけではないが、それよりも作品がふくらんだことを、ぼくは言いたい。 ぼくと作った『きずだらけのりんご』一つとっても、そのことは言える。 初演のころには若さがあった。若さに任せて突っ走る躍動感があり、力感があった。それがいつの頃か、同じことをやっても息がはずむようになったり、足元がおぼつかなくなったり、疲れが残るようになったりした。孫のいる年になったのだもの、当然である。大病もした。普通ならそこで、老いに逆らってかえって老いを思い知らされて、落ち込むところである。ところがこの二人は、そうはならなかった。年を隠すことなく、年なりに、物語のおもしろさ、すばらしさを伝えようとした。その結果、どうなったか。子どもたちは、白いものの混じるおひげの瞬三おじさんが、必死に化け通そうとする子だぬきに見え、おばあちゃんと呼ばれてもおかしくない夏ちゃんが、好奇心いっぱいの女の子に見えるという奇跡を目にするのだ。初演のころには、そのように見せようとする二人がいた。だが今は、心の中から子だぬきであり女の子であるお二人が、ごく自然にそこにいる。 もう一本の『悔悟の記録』も、初演のころの、怒りを生でぶつけたような力みが消え、静かに淡々と語ることで事実の重みがしっかりと伝わり、見る者の胸に怒りが湧いてくる、そんな作品に育っている。 〈なんじゃもんじゃ〉は、しっかりおとなになった。 だから、20年、おめでとう。 ちなみに「なんじゃもんじゃ」はもともと、驚くべきものを見たとき、思わず発する言葉である。「ナンダ、コイツハ」「モノダロウ、キット」である。〈もの〉とは「ものすごい」の〈もの〉。「もののけ」の〈もの〉。だから「ナンダ、コリャ。モノノケノハタラキニチガイナイ」ということになる。 20年にして、そろそろ「物の怪」の域に達してきた二人に、この名前はいかにもふさわしい。 だから、おめでとう! |
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30年に向かって、いよいよこれからだね 後藤武彌(劇団うりんこ&うりんこ劇場)
劇団なんじゃもんじゃが創立20年をむかえる。ホンメちゃんと夏ちゃん夫婦が始めた演劇活動の前身は名古屋の劇団にある。それこそ二人が20代から40代にかけてエネルギーをそそいできた劇団が1986年にうりんこ劇場をオープンさせて間もない時、お二人はホンメちゃんのご両親の住む郷里で職業的な劇団活動をめざす決意を固めたのだ。そしてその二人のその後の活動をまぶしく見てきた。 私が二人と作品作りで関わっていたのは旗揚げから10年ぐらいまでだろうか。なんじゃもんじゃの稽古場は、いつも4人の子ども達の声が聞こえた。まだ小さい子がいるから遠隔地への公演は制限されたが、その結果地域に根を張っていくことが出来たともいえる。そして何より二人には農山村地域で“やってやる”という強い意志があった。だから創立から10年の間に旺盛な作品づくりにあらわれていた。当然のように作品の題材も方法も二人の身体も、外に向かってはなたれていたように思う。子どもばかりか大人まで掴み取っていかなければという意欲がそれを支えていた。 そして20年、子ども達が巣立った今、二人は静かにそれぞれが自分の内に向かっているようだ。最近作った『おこんじょうるり』や『べっかんこ鬼』は、かって劇団うりんこが上演した作品である。反骨の作家といわれたさねとうあきらさんの創作民話を、今の自分達の身体や気持ちに照らして再創造しているのだろう。体力の衰えをかばうには十分すぎる20年間の経験がある。これまでと違った二人への期待がわき、楽しみでならない。 |
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